「9月18日・満州事変勃発 ― 自作自演から始まった“孤立”の物語」

【満州事変】勃発記念日(9月18日)を振り返る

皆さん、こんぬつは。今日は真面目に歴史を振り返ろうと思っている、自称社会派のけだま。です(‘ω’)ノ(自分で言うな!!)

我が国の長い歴史を語る上で絶対に外すことのできない最重要の国をひとつあげろと言われたら、間違いなくその答えは中国です。そしてその関係性は、全体の9割5分は中国優位(現在もそうですね💦)そんな絶対王者、アジアの獅子相手につかず離れず慎重に対応してくることが、我が国の重要な国是であったといっても過言ではありません。

絶対的に強くてもそりゃあたまには眠る……その僅か5%の日本優位の時期のひとつが、ちょうどこの満州事変勃発の時期だったのです。

本日は、満州事変の歴史的経緯と推移を深掘り、そこからなにを学ぶべきか考えたいと思います。


目次

柳条湖事件 ― 発端となった自作自演

1931年9月18日夜、奉天(現在の瀋陽)郊外で南満州鉄道の線路が爆破される事件が起きました。これが「柳条湖事件」です。爆破はごく小規模で列車の運行に支障が出るほどではありませんでしたが、日本の関東軍は「中国側の仕業だ」と主張。これを口実に直ちに軍事行動を開始しました。後に明らかになったように、この爆破は関東軍自身による自作自演でした。つまり最初から中国領土を制圧するための仕掛けだったのです。

関東軍の独断専行 ― 止められなかった政府

事件直後から関東軍は中国軍の駐屯地を次々と攻撃し、満州全域を支配下に収めていきました。興味深いのは、この行動が日本政府や軍中央の正式な許可を得ていなかった点です。当時の政権は犬養毅内閣に移る直前で、内政は不安定。政府は国際社会の批判を恐れ、事態の拡大を抑えようとしましたが、現地の軍は「事後承諾」を既成事実として積み上げていきました。結局、政府は軍を止められず、むしろ世論の後押しによって軍事行動を追認することになります。

満州国建国 ― 傀儡国家の誕生

1932年、日本は清朝最後の皇帝であった溥儀を担ぎ出し、「満州国」の建国を宣言しました。しかし実態は、日本の関東軍が実権を握る傀儡国家で、中国人からは「偽満州国」と呼ばれました。広大な満州は資源が豊富で、日本にとっては鉄鉱石や大豆などを得られる「生命線」とみなされました。国内の不況や人口問題を背景に「満蒙は日本の生命線」というスローガンが広まり、多くの国民も軍の行動を支持しました。

国際社会の反応 ― リットン調査団と国際連盟脱退

この行動に強く反発したのが国際社会です。国際連盟は「リットン調査団」を現地に派遣し、調査結果として「満州国は中国からの独立ではなく、日本の侵略によるもの」と結論づけました。これに対し日本は反発し、1933年に国際連盟を脱退。以後、日本は国際社会から孤立の道を歩むことになりました。国際協調よりも武力と自給自足を重視する姿勢が鮮明になり、のちの太平洋戦争へとつながる外交路線の転換点となったのです。

国内への影響 ― 軍部台頭と民主主義の後退

満州事変の大きな帰結のひとつは、国内政治における軍部の発言力が飛躍的に強まったことです。政府が軍の行動を制御できなかった前例は、以後の日本政治に影を落としました。世論もまた「満州は日本の権益」という宣伝に乗せられ、軍の行動を支持。結果として政党政治は弱体化し、やがて二・二六事件などの軍部主導のクーデター未遂事件が続発します。軍が「国家を救う」という名目で政治に介入する土壌は、この満州事変を機に固められていきました。

満州事変の歴史的意義

満州事変は「日中戦争」への予兆であり、「第二次世界大戦」への序章とも言われます。小規模な自作自演事件から始まった軍事行動は、わずか半年で満州全域を制圧するまでに拡大しました。その過程で日本は国際協調から孤立し、国内では軍部の影響力が増大。結果として、平和的な外交よりも「武力による解決」が優先される道へと踏み込んでしまったのです。


【はしゃぎ続けた国の末路は……。】

ずっと憧れと畏敬の対象を一時的にでも越える……。そりゃあ自信にもなりますし気持ちも良い。とてもよくわかりますね。その越えた対象にことさら辛くあたるのも小学生でも経験したことのある理屈……。

ただ、一番気を付けなければならないのが『自信が過信に変わる時』。

過信に過ぎ過ぎたどこかの国が、アジア王者と全面戦争をしつつ、世界王者をも同時に敵に回すといった暴挙を犯し、国を滅ぼしかけたのは、皆さん周知のことですね(>_<)💦

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