逆賊として命を絶たれた 小栗忠順——
彼は一体、何の
逆賊だったのでしょう…。
彼は果たして死して名を残したのでしょうか?
そんな…。
死後の世界を見てみましょう――。
死して何が残るのか?な二人(はじめての方へ)

後輩K:畳の上で大往生を公言する元気印。仮に野垂死にしてしまったら、鯨骨生物群集のように様々な命を繋ぐであろう、体重100㎏を超す養分の塊。



けだま。:仮に死んでしまったら、このブログを遺産として愛する娘に贈りたいと願っているが、負の遺産として断られるであろう「じっとしてないハシビロコウ」(サイト名)の運営者。
「逆賊」として、死す
時は慶応4年(1868年)閏4月。
小栗忠順は、新政府軍によって斬首されました。
裁判らしい裁判が行われることもなく、明確な罪状が示されたわけでもありません。ただ、「幕府に最後まで忠を尽くした男」という事実だけを残して…。時代が変わろうとしていました。徳川幕府は終わりを迎え、その幕臣であった小栗もまた、幕府とともに切り捨てられたのです。
そして、その死を境に――。小栗忠順の名は、歴史の表舞台から消えていきました。
……少なくとも、しばらくの間は…。



怖えーっ!何すか?そのおどろおどろしいオープニングは!
先輩?ウゼェ上に怖えとか最悪っすよ?鬼に金棒ちゅーか火に油ちゅーか…。



あはは。なかなか雰囲気出てただろ?この前、YouTubeで「あなたの知らない世界」って怖い動画観たんだよ。
…って、おいっ!!ウザいとは何事だっ!あと、例えがちょっと変だぞ?



この感じからすると小栗忠順は怨霊となって人に仇なしたって流れっすかね~



怨霊??逆だ!
逆賊の汚名を被り、無念の死を遂げた小栗忠順だが、成歩堂龍一も異議ない様々な方面から激賞の大逆転劇を見て行こうではないか。
第一の逆転 ― 横須賀製鉄所と、東郷平八郎の頭下げ
小栗忠順が、幕府の命運をかけて進めた仕事があります。横須賀製鉄所です。
慶応元年(1865年)11月15日。フランスの技術者フランソワ・レオンス・ヴェルニーを迎え、その建設が始まりました。小栗は、幕府の海軍力を支えるだけでなく、日本に近代的な造船・製鉄技術を根付かせようとしていたのです。
ところが――。
小栗忠順は、その完成を見ることができませんでした。慶応4年(1868年)、新政府軍によって斬首。けれども、徳川幕府が倒れたあとも、横須賀製鉄所の建設は止まりませんでした。明治政府はこの施設を引き継ぎ、明治4年(1871年)には第1号ドックが完成。名称も「横須賀造船所」へと変わります。
つまり――
小栗を斬った側が、小栗の残した仕事を引き継いだ。
そして、その造船所は後に横須賀海軍工廠へと発展し、日本の近代海軍を支える重要な施設になっていきます。しかし。ここから先は、さらに皮肉な話になります。
時は明治45年(1912年)。日露戦争で連合艦隊を率いた人物――
東郷平八郎です。
東郷はこの年、小栗家の遺族を自宅に招きました。そして、横須賀造船所を残した小栗忠順への謝意を伝えたといいます。
「小栗がこの造船所を残してくれていなかったら、日本海海戦の完璧な勝利はなかった」
小栗忠順が斬首されてから、44年。その小栗を「逆賊」として処刑した新政府のもとで、日本海軍の最高指揮官となった東郷平八郎が、その遺族に頭を下げたのです。
生きている間には「逆賊」として切り捨てられた男。
その男が残した仕事に、後の日本が救われた。そして、その功績を認めたのは――
かつて小栗を討った側の日本海軍を率いる男でした。小栗忠順の「死後」は、ここから少しずつ動き始めます。
歴史の横コラム
日本海海戦とは?
日露戦争の勝敗を決定づけた、近代日本海軍の大海戦
明治38年(1905年)5月27日から28日にかけて、日本海軍の連合艦隊とロシア帝国のバルチック艦隊が対馬沖で激突しました。
東郷平八郎が率いる日本艦隊は、ロシア艦隊に大きな損害を与え、歴史的な勝利を収めます。この海戦は、日露戦争の講和交渉にも大きな影響を与え、日本が近代海軍国として国際的な注目を集める契機となりました。
第二の逆転 ― 大隈重信の「白旗」
東郷平八郎だけではありません。小栗忠順の死後、その仕事を評価した人物には、もう一人、意外な名前があります。
大隈重信です。
佐賀藩出身。明治政府の要職を歴任し、のちに内閣総理大臣となった人物です。そんな大隈には、小栗忠順について、こんな言葉が伝えられています。
「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」
かなり強烈な評価です。
ただし、この言葉については、発言した時期や一次資料まで確認できているわけではありません。現在確認できる資料では、後世の小栗評価を紹介する際に繰り返し引用されている言葉、として扱うのが適切でしょう。
そして、もう一つ。
大正4年(1915年)。横須賀海軍工廠の創立50周年に際して、大隈重信が書簡を寄せたと伝えられています。
そこには、横須賀の造船所が小栗忠順の努力によって建設されたこと、そして小栗が新政府軍によって斬首されたことが記されていたといいます。
これは、なかなか意味深い出来事です。なぜなら、それまで横須賀造船所は、明治新政府が造ったものとして語られていたとされるからです。
幕府のために造られたものを、明治政府が引き継ぐ。その功績が、長いあいだ小栗のものとして語られない。そして50年後。その歴史を、明治政府の中心人物だった大隈重信が認めた。
小栗を「逆賊」として切り捨てた時代から、半世紀。
今度は、政治家の側から白旗が上がったのです。
小栗忠順は、死んでからようやく勝ったのでしょうか。
――いや。
まだ、もう一人。この男の名前が残っています。
大隈重信:1838年(天保9年)〜1922年(大正11年)
佐賀藩出身の政治家。明治政府の近代化政策に携わり、後に内閣総理大臣を2度務めました。
東京専門学校(現・早稲田大学)の創立者としても知られています。小栗忠順の再評価にも関わる、意外な人物です。
第三の逆転 ― 司馬遼太郎、「明治の父」と呼ぶ
政治の世界だけではありません。小栗忠順の評価は、やがて歴史を語る作家の目からも見直されていきます。
その人物が、司馬遼太郎です。
1989年に刊行された『「明治」という国家』。司馬はこの本で、坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、福沢諭吉らとともに小栗忠順を取り上げています。そして小栗を、明治国家の形成に関わった「明治の父たち」の一人として位置づけました。NHK出版の紹介でも、小栗は「国家改造の設計者」とされています。
ここが、なんとも皮肉です。
小栗忠順は、明治という新しい時代を迎えることなく、「逆賊」として命を奪われました。ところが、その明治を語る司馬遼太郎は、小栗をその時代を生み出した側の人物として評価したのです。
しかも――
小栗忠順は、勝海舟と並ぶ「明治の父たち」の一人。
かつて「幕府側の人間」として対立した二人が、後世の歴史観の中では、同じ「明治をつくった人物」として並べられる。小栗忠順の「死後」は、ついに政治の世界を越え、後世の物語の中にまで入り込んでいったのです。
司馬遼太郎:1923〜1996年。
『竜馬がゆく』『坂の上の雲』などで知られる国民的作家。
歴史小説を中心に、近代日本の人物や社会を独自の視点で描きました。
『「明治」という国家』では、小栗忠順を「明治の父たち」の一人として取り上げています。
締め ― 「逆賊」という、最大の皮肉
小栗忠順は、生きている間に「逆賊」として命を奪われました。
けれど、その死後。
彼が遺した仕事は、軍人に頭を下げさせ、政治家に白旗を揚げさせ、作家に「明治の父」と呼ばせました。
小栗は、明治を生きることができませんでした。
それでも――彼が思い描いた「その先の日本」は、彼の死後に始まっていたのです。
もしNHKが、小栗忠順を主人公にした大河ドラマを作るとしたら。
きっとこんなタイトルになるはずです。
『逆賊の幕臣』
幕府に最後まで忠を尽くしたからこそ、「逆賊」と呼ばれた男。
けれどその忠義は、皮肉にも新しい日本をつくる礎になった。
――小栗忠順の「死後」は、ここで終わります。








