思い出して欲しい
自分が子どもの頃、迷子になった時のことを――
押しつぶされそうになる焦燥感と、どうしようもなく押し寄せる絶望感を
彼は一体どうだっただろうか?
着の身着のまま、隣町どころか海を渡ってしまった。
誰も知り合いの居ない世界へ――
言葉も通じない世界へ――
その焦燥感、絶望感たるや――
――【ジョン万次郎の生涯】——

意外さの欠片もない名前の由来の二人(はじめての方へ)

後輩K:名前の由来・苗字がカ行だから。余談だが現在体重100㎏超のドカベン体系だが、高校球児時代は右の本格右腕。○○高校の「ドクターK」などと言われていたが、今はただの毒竹である。



けだま。:名前の由来・名前が「け」から始まりかつ毛むくじゃらだから。余談だが、ウン十年前からこの「けだま」名義を使っているが、かなり競合(けだまって名乗っている人)が多くて自らのHNに悩んでいる。あと、リトルリーグ時代はライトで8番だった。
前回までのおさらい
2028年大河ドラマの主人公に抜擢されたジョン万次郎こと中濱万次郎。貧乏な出で様々な苦労を重ねた万次郎少年の身に事件が起こる――。
そして間一髪のところで奇跡が起き、万次郎は亜米利加に渡った――。
この先待ち受ける万次郎の運命の結末に全米が泣いた――。



ガハハハッ!全米が泣いた…。なんてダセェ終わり方!(爆笑)
昭和っすか?昭和の流儀なんすか?その恥ずかしい引きは!!
先輩っ!目ぇ覚まして下さいっ!今、令和。令和なう。っすよ!
あっ!幕末の話でしたね!ガハハハッ!



うっせぇわ!!
お前の容赦ない追い込みに、全米じゃなく俺が泣くわ!
俺的にも①全米が泣いた。案と、②鳥島から跡を濁さず飛び立った万次郎。(鳥だけに)案で悩んだんだよ!



うわぁ…。②案もひでぇ…。
先輩?あまりにも痛過ぎるんで、今の話聞かなかったことにしてあげるから、早く続きが聞きたいなぁ~
んじゃ、渡米編よろしくっす!
「ジョン」という名前の由来



そもそもの話、なんで彼(中濱万次郎)がジョン万次郎と呼ばれているか知ってるか?



確かに謎っすね!!どっから来たんだジョン??拾ってきた子犬に名前つけるのと訳違うでしょうに…。
実は、この「ジョン」という名前。
万次郎を救ったアメリカの捕鯨船、「ジョン・ハウランド号(John Howland)」に由来しています。鳥島で万次郎たちを救助したホイットフィールド船長は、航海の途中から万次郎を「ジョン」と呼ぶようになりました。
さらにアメリカでは、万次郎の「万」を「Mung」として、「John Mung(ジョン・マン)」と名乗っていたとされています。
つまり――
ジョン=船の名前
マン/Mung=万次郎の「万」
というわけです。
後に日本へ帰国し、幕府から「中濱」という姓を授けられた彼が、現在「ジョン万次郎」と呼ばれているのも、こうしたアメリカ時代の愛称がそのまま残ったからなのです。



ちなみに元々姓を持っていなかった万次郎が、後に士分(お侍さん)に取り立てられた時の姓「中濱」はどこから来たか分かるかな?



確かに謎っすね!!どっから来たんだ中濱??拾ってきた子猫に名前つけるのと訳違うでしょうに…。



あはは。子猫になかなか中濱は付けないだろうよ(笑)
答えは①漂流編をよーく読み直してみろよ。



ハッ!!中ノ浜村っっ!!
船長ホイットフィールドとの交流(万次郎14歳〜)
さて、143日に渡る遭難の末に、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救出された、中ノ浜5人衆でしたが、5人は仲良く末永く暮らしましたとさ。めでたしめでたし。とはなりませんでした。
ハワイでの別れ――万次郎、ひとりアメリカ本土へ
ところで、ここで一度、万次郎と一緒に鳥島を脱出した仲間たちのその後にも触れておきましょう。実は、5人全員がアメリカ本土まで渡ったわけではありません。1843年、ホイットフィールド船長に連れられてハワイへ寄港した際、5人はここで別れることになります。筆之丞、重助、五右衛門、寅右衛門の4人はハワイに残ることを選びました。
そして、アメリカ本土まで渡ることを決めたのは、万次郎ただひとりでした。
鳥島では、同じ場所で生き延びるために支え合った5人——。
その5人が、今度はそれぞれ別の道へ進むことになったのです。万次郎はひとり、さらに遠いアメリカ本土へ向かいます。そこで待っていたのは、もちろん日本とはまったく違う世界でした。
その新しい世界で、万次郎の運命を大きく変えることになるホイットフィールド船長との関係を、ここから見ていきましょう。



先輩?話の腰を折るようですいませんけど、なんで、ジョン・ハウランド号はちゃちゃっと中ノ浜(日本)とやらに5人を送り届けてくれなかったんすか?
軽ーく、アッシー君やってやりゃ、それこそめでたしめでたしじゃないっすか!



ほう。いい質問ですね。では、逆に貴方に質問しましょう。
ℚ:江戸時代。長きに渡り、諸外国との交流を禁じた幕府の政策は何でしたっけ?



ハッ!鎖国っ!!
息子のように可愛がられた万次郎
1843年5月、万次郎はホイットフィールドとともにマサチューセッツ州フェアヘイブンへ到着します。ただし、すぐに船長の家族の一員になれたわけではありませんでした。当時のホイットフィールドは、妻を亡くしたばかりだったのです。
万次郎はしばらく、船長の友人エベン・アキン一家に預けられます。同年5月末、ホイットフィールドは再婚。ここでようやく、万次郎は新しいホイットフィールド一家の一員として迎え入れられました。
鳥島で仲間と遭難した14歳の少年は、太平洋の向こうで新しい家族を得たのです。
フェアヘイブンでの小学校教育
万次郎にとって、学校そのものが人生で初めての経験でした。日本にいた頃、貧しい漁師の家に生まれた万次郎には、十分な学校教育を受ける機会がありませんでした。ところがフェアヘイブンでは、近所の教師ジェームズ・アレンから英語の読み書きを教わり、その後、町の小さな学校へ通うようになります。
そこは、一つの教室に、年齢の異なる子どもたちが集まって学ぶ、今でいう複式学級のような学校でした。万次郎はそこで英語を学び、読み書きや簡単な文法を身につけていきます。日本語すら十分に読めなかった少年が、今度はまったく知らない英語の世界に飛び込んだわけです。そして英語を身につけていくにつれ、万次郎の学びはさらに高度になっていきます。
数学、測量、航海術――。
やがて万次郎は、フェアヘイブンのバートレットアカデミーへ進みます。ここから先は、単なる「救助された少年」の話ではありません。
万次郎自身の努力で、人生を切り開いていく物語が始まります。
血の滲むような努力〜首席へ
フェアヘイブンで学び始めた万次郎ですが、その道のりは平坦ではありませんでした。授業中、教師が何を言っているのか、半分も聞き取れない。教科書を開いても、そこに何が書かれているのか見当もつかない。休み時間、周りの子どもたちの会話の輪に、万次郎だけが入れない。
日本語すら十分に読み書きできなかった漁師の少年が、見ず知らずの土地で、見ず知らずの言葉を、ゼロから積み上げていく。孤独だったはずです。心細かったはずです。それでも弱音を吐いたという記録は残っていません。
万次郎はただ、机に向かい続けました。英語を覚え、数学を解き、測量を学び、航海術を身につける。やがて船の設計図が読めるようにと、造船技術にまで手を伸ばします。人の何倍も時間をかけて、人の何倍も繰り返して―。
そして万次郎は、ついに首席の成績を収めるまでになりました。言葉も分からない。頼れる過去の実績もない。それでも、万次郎は結果を出したのです。
一方でこの頃、万次郎は民主主義や自由、平等といった、日本にいては知る由もなかった新しい価値観にも触れています。目の前に広がっていたのは、故郷ではおよそ考えられなかった、自由で開かれた世界でした。
けれど、その眩しい世界の裏側で、万次郎はもう一つの現実にも直面することになります。
人種差別――。



「そして万次郎は、ついに首席の成績を収めるまでになりました。」
…こうして文章にしちゃうとたった一行の話なんでしょうけど、行間にたくさんの血と涙と汗が詰まっているんでしょうね…。
よくやった!万次郎っ!感動した!!



とりあえず、お前は万次郎の爪の垢を煎じて飲むように!
お前も酒席ばっかり頑張ってないで、首席取れるくらい努力してみろよ。
水夫として、そして捕鯨船で数年の航海
学校を出た万次郎は、その後、桶屋で働きます。そして1846年、19歳になった万次郎は、捕鯨船「フランクリン号」にスチュワードとして乗り込み、ニューベッドフォードを出港しました。ここから万次郎は、数年間にわたって捕鯨船員として海を渡ります。
大西洋からインド洋、そして太平洋へ。世界の海を航海しながら、船員としての経験を積み、働いてお金を貯めていきました。しかし、その航海の途中には、思いがけない出来事もありました。
琉球の小さな島に上陸したのです。
故郷・日本は、もう目の前でした。けれど、このときも万次郎は、まだ日本へ帰ることができませんでした。
アメリカで受けた差別
異国の地で学び、働き、捕鯨船員として世界の海を渡った万次郎。首席の成績まで収め、船員としての経験も積んでいました。それでも、アメリカが万次郎をすべて受け入れたわけではありません。
ある日曜日のこと。ホイットフィールド船長は、いつも通っていた教会に万次郎を連れて行きました。ところが牧師は、着席していた万次郎の姿を見るなり、次のような趣旨の発言をしたと伝えられてます。
「白人以外の者が、そこに座ってはならない」
これに激怒したのが、ほかでもないホイットフィールド船長でした。長年通い慣れた教会と縁を切り、隣町の教会へ移ってしまったのです。
首席で卒業するほどの努力も、船員としての経験も、肌の色の前では何の意味も持たない。そんな理不尽が、当たり前のように存在した時代でした。
それでも、万次郎の隣には、最後まで味方でいてくれる人がいました。
そして、この経験は、のちに万次郎が日本へ帰国したあとにも、思わぬ形で影を落とすことになります。
のちの船長との再会/漁師仲間との再会
さて、フランクリン号に乗り込み、数年間にわたる航海を続けた万次郎は、その途中で、懐かしい人たちとの再会も果たしています。
万次郎、21歳。漁師仲間との再会
航海の途中、ホノルルに寄港した万次郎は、鳥島でともに漂流した伝蔵(筆之丞が改名)、五右衛門、寅右衛門と再会します。離ればなれになってから、もう何年も経っていました。けれど、その輪の中に、一人だけ姿がありませんでした。
重助は、すでにこの世を去っていたのです。
鳥島で同じ飯を食い、同じ不安に耐えながら救助を待った仲間。生きて再会できた喜びの裏で、万次郎はもう会えない一人の存在を、静かに突きつけられることになりました。
万次郎、22歳。ホイットフィールド船長との再会
そして1849年9月。ニューベッドフォードに戻った万次郎は、かつて自分を救い、アメリカへ連れてきてくれたホイットフィールド船長と再会します。鳥島で救助された14歳の少年。その少年を「ジョン」と呼び、家族のように迎え入れてくれた船長。二人が顔を合わせるのは、実に6年ぶりのことでした。
万次郎は、もうあの頃の少年ではありません。英語を身につけ、学校で首席を取り、船員として世界の海を渡ってきた一人前の青年です。かつて息子のように可愛がった少年の成長ぶりを、船長はきっと誇らしく思ったに違いありません。
万次郎のアメリカでの歳月は、喜びと喪失、その両方を抱えながら、ひとつの区切りを迎えました。
次に万次郎を待っているのは、日本へ帰るという大きな決断です。
次回予告(帰国編へ)



いやぁ!ホント凄ぇ!!言葉も通じない異国に独りでポーンと放り出されて、よくもまあ、ここまで成長したもんだ!



全く同感だ。一説によると万次郎は貧しい漁村の出だろ?日本語の読み書きもろくに出来なかったらしい。
とにかく言えるのが、幕末・維新の偉人たちには「超人的な努力で勉学に励み、大成しました。」みたいなエピソードに事欠かないんだよ。
きっと、何か特別な熱量がこの時代にはあって、その偉人たちがストレートに活躍出来る環境があったんだろうな。
おいおいこの話も掘り下げてみたいな。



ぬるい先輩の、ウザい講釈の話は置いといて。
いよいよ次回は帰国編っすね!!
万次郎の故郷に錦を飾る姿楽しみにしてるっすよ♪



ふふふ。事はそんな単純な話じゃないんだ。
故郷に錦だヒャッホーイ!!みたいなお花畑的展開だったらどんなに幸せか…。
…詳しくは次回③帰国編でな。





