太平の眠りから醒めた若い国家
広い海に打って出るのに必要なもの
――世界地図。
だが、
幸いにもこの国には
生きた世界地図が居た――。
前回までのおさらい
貧しい漁師の息子として生まれた万次郎。彼が14歳の頃、ある日の漁で船が遭難してしまった――。
命からがらたどり着いたのが絶海の孤島の鳥島。143日に及ぶ過酷な無人島生活の果てに遥か彼方の水平線に現れたのはアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号だった――。
(①漂流編)
当時の日本は鎖国中のため、故郷に帰ることも叶わぬ万次郎。ジョン・ハウランド号の船長。ホイットフィールドに引き取られ、彼の優しさに触れながら勉学に励んでいく。異国の者という言われなき差別を受けながら……。
(②渡米編)
様々な苦労を重ねて、遂に帰国を果たした万次郎。ただすんなりと帰国出来たわけではなく、異国から来た怪しげな漂流者と言われなきレッテルを貼られて執拗な取り調べを受ける。しかし、忍び寄る列強の影に怯える日本には、万次郎の知識、経験は何にも代えがたく、次第に歴史の表舞台に――。
(③帰国編)
――そして、嘉永6年(1853年)6月。浦賀沖に4隻の黒船が現れた――。

【黒船来航イメージ図:生成AIにて作成】
この記事の語り部(はじめての方へ)

けだま。:軽ーい気持ちでジョン万次郎の生涯を深掘りしてたら全4作の長編大作になったことに衝撃を受けてる、自称町内会地図。
【ジョン万次郎の生涯】


黒船来航から幕臣へ
嘉永6年(1853年)6月。浦賀沖に、ペリー率いる4隻の黒船が現れました。
長く続いた鎖国体制が、大きく揺らぎ始めた瞬間です。
そして幕府が必要としたのは、目の前に現れた「アメリカ」という国を知るための情報でした。
そこで白羽の矢が立ったのが、帰国後、土佐で暮らしていた万次郎です。
アメリカで約10年間を過ごし、英語だけでなく、航海術や測量術、捕鯨などを身につけていた万次郎。まさに、日本にほとんど存在しなかった「アメリカを知る男」だったのです。幕府に召し出された万次郎は江戸へ向かい、嘉永6年11月、幕府の直参として取り立てられました。そして、故郷・土佐の「中ノ浜」にちなみ、
「中濱」
の姓を与えられます。
こうして、かつては一介の漁師だった少年は、
「中濱万次郎」という幕府側の人間になったのです。漂流して、アメリカへ渡り、そして帰国した。その万次郎が今度は、日本の側から世界を見るための人材として必要とされたのです。
ここから万次郎の人生は、単なる「帰国後の活躍」では終わりません。いよいよ彼は、幕末という激動の舞台へ入っていきます。



足早にジョン万次郎のその後を追いましたが、ここからは、幕末維新の偉人と万次郎の関わりについて、それぞれの人物の視点でフォーカスしたいと思います。
島津斉彬 ― 開明の眼差しを向けた男
島津斉彬(しまづ なりあきら)
1809年~1858年薩摩藩第11代藩主。嘉永4年(1851年)に藩主となり、洋学を取り入れた藩政改革や集成館事業を推進しました。
幕政改革にも関わり、ペリー来航後には欧米列強への対応をめぐって幕府に意見を述べています。
幕末の薩摩藩を代表する大名の一人です。
1851年、帰国を目指して琉球に上陸した万次郎は、薩摩藩へ送られました。そこで待っていたのは、異国帰りの漂流者に対する厳しい尋問だけではありませんでした。
万次郎24歳
薩摩藩主・島津斉彬は、万次郎から海外の情勢や文化について、じきじきに話を聞きました。西洋の知識や技術に関心を持っていた斉彬にとって、アメリカで長年暮らした万次郎は、貴重な情報源だったのです。
万次郎25歳
土佐へ帰郷した万次郎は、その後、江戸へ召し出されて幕臣となります。しかし、薩摩との縁はそこで終わりません。斉彬は、万次郎が持つ英語や海外の知識に、引き続き目を向けていました。そして後年、万次郎は薩摩藩の洋学校である開成所に、英語講師として招かれることになります。
一人の漂流者から、世界を知る人材へ。
万次郎の知識にいち早く目を向けた島津斉彬。その出会いは、万次郎の帰国後の歩みにもつながっていったのです。
後藤象二郎 ― 1枚の世界地図を渡された少年
後藤象二郎(ごとう しょうじろう)
1838年~1897年
土佐藩士。吉田東洋の義理の甥にあたり、若くして藩政に登用されました。
幕末には坂本龍馬らとも関わり、山内容堂に大政奉還を進言。明治維新後は政府の要職を歴任し、自由民権運動にも参加するなど、幕末から明治にかけて政治の表舞台で活動した人物です。
後藤象二郎と万次郎の接点は、万次郎が帰国した直後までさかのぼります。
万次郎25歳
土佐藩で取り調べを受けた万次郎は、その後、藩校「教授館」の教授となり、英語や航海術などを教えました。そこには、後藤象二郎もいました。万次郎が土佐藩士・吉田東洋に外国の事情を説明した際、そのそばで熱心に話を聞いていた少年が彼です。
万次郎は、その姿に心を動かされ、手元に残っていた世界地図を一枚、象二郎に渡したと伝えられています。象二郎はその地図を大いに喜び、数日間部屋にこもって眺めていたとも伝えられています。
一枚の世界地図。
それは、まだ少年だった象二郎にとって、自分の知らない広い世界を具体的に見るための地図だったのかもしれません。
万次郎39歳
時は流れ、慶応2年(1866年)。後藤象二郎は土佐藩の開成館の運営に携わり、洋学や殖産興業を進めていました。そして、そこへ講師として招かれたのが万次郎です。万次郎は開成館で、航海術・測量術・英語・捕鯨などを教えました。
かつて世界地図を受け取った少年は、今度は同じ場所で、万次郎から直接学ぶ立場になっていたのです。
一枚の世界地図から始まった縁は、
やがて「世界を知る」から「世界を学ぶ」へ。
万次郎と後藤象二郎。
少年だった象二郎に渡された一枚の地図は、二人の長い関わりを象徴する出来事だったのです。
福澤諭吉 ― 1冊の辞書を買った男
福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)
1835年~1901年
中津藩士・思想家。蘭学や英学を学び、幕末には3度の海外渡航を経験しました。慶應義塾の創設者としても知られ、『学問のすゝめ』『西洋事情』などを著しました。
万延元年(1860年)には咸臨丸に乗り、万次郎とともにアメリカへ渡航。帰国後は英語や西洋事情を広く紹介し、近代日本を代表する啓蒙思想家の一人となりました。
万次郎33歳
安政6年(1859年)、横浜を訪れた福澤諭吉は、外国人とのやり取りを目の当たりにし、英語を学ぶ必要性を痛感したといわれています。しかし、当時の日本では英語を教えてくれる人を探すこと自体が簡単ではありませんでした。そんな中、アメリカ事情を知り、英語を教えていた人物として万次郎の名が挙げられています。福澤の『福翁自伝』に登場する「漂流人」も、万次郎を指すと考えられています。
そして翌年、二人は同じ船に乗ることになります。万延元年(1860年)2月。万次郎は通弁主務、つまり通訳の責任者として咸臨丸(かんりんまる)に乗り込み、福澤諭吉とともに太平洋を渡りました。航海中、荒れた海に多くの日本人乗組員が船酔いする中、万次郎は捕鯨船で海を渡った経験を思い出しながら、むしろ船旅を楽しんでいたと伝えられています。
そしてサンフランシスコ到着後、現地の新聞『Daily Alta California』は、咸臨丸の万次郎について、使節団の通訳たちも「万次郎には及ばない」と報じました。かつてアメリカで英語を身につけた少年は、今度は日本から来た使節団の通訳として、その英語力をアメリカの新聞に評価されるまでになっていたのです。
そして、サンフランシスコで二人は一冊の本を買います。万次郎は福澤を現地の書店へ案内し、二人で「ウェブストルの字引」、つまりウェブスター辞書を一冊ずつ購入しました。福澤自身が『福翁自伝』で、この辞書が日本に輸入された最初の記録だと述べています。
この一冊の辞書は、福澤にとって単なる英語学習の道具ではありませんでした。
後の福澤は、アメリカ独立宣言を翻訳し、『学問のすゝめ』でも「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という有名な一節を記しています。ウェブスター辞書を手にしたことが、これらの翻訳や著作にどの程度影響したのかを断定することはできません。ただ、慶應義塾の資料でも、万次郎との交流が福澤のその後の著作に影響した可能性が指摘されています。
後藤象二郎には「世界地図」——。
福澤諭吉には「英語の辞書」——。
異国を知ることで人生を大きく変えた万次郎は、今度は自らが持ち帰った「世界への扉の鍵」を、次の世代へ手渡していたのです。
咸臨丸(かんりんまる)
1857年竣工~1871年沈没
幕府がオランダに発注して建造した木造蒸気軍艦。全長約49m、排水量約620トンで、蒸気機関と帆を併用して航行しました。
万延元年(1860年)、遣米使節の護衛艦として太平洋を横断。勝海舟を艦長格とし、通弁主務の万次郎、小野友五郎らが乗り組みました。日本人乗組員を中心に太平洋を横断したことから、近代日本の海軍史を語るうえで象徴的な船の一つとなっています。
小栗忠順 ― 同じ海を渡った、もう一人の幕臣
小栗忠順(おぐり ただまさ)
1827年~1868年
幕臣。勘定奉行などを務め、幕末の幕府改革を担った人物です。万延元年(1860年)には遣米使節の一員として渡米し、現地の造船・工業技術などを視察しました。
帰国後は横須賀製鉄所の建設を推進するなど、幕府の近代化に尽力しました。戊辰戦争では新政府軍に抗して戦い、慶応4年(1868年)に処刑されました。
万次郎33歳
万延元年(1860年)、万次郎は咸臨丸に乗り込み、太平洋を渡りました。そして、この遣米使節にはもう一人、後に幕府の近代化を推し進めることになる人物が参加していました。小栗忠順です。
ただし、二人が乗った船は同じではありません。小栗が乗ったのは、正使一行のポーハタン号。
万次郎が乗ったのは、その護衛と航海訓練を兼ねた咸臨丸でした。つまり二人は、同じ船室で肩を並べたわけではありません。
それでも1860年、「日本が世界を見るために送り出した使節」の一員として、同じ太平洋を渡ったことは確かです。
小栗はアメリカで工業や造船技術を目の当たりにし、後に横須賀製鉄所の建設などの幕府近代化への構想を持ち帰りました。万次郎は、すでに知っていたアメリカを、今度は日本人に伝える立場として渡米しました。
同じ遣米使節。同じアメリカ。
しかし、二人が見ていたものは少し違っていたのかもしれません。
同じものを見ているのに、違う景色が見えていた、1860年。遣米使節団のアナザーストーリー…。
逆賊の幕臣こと小栗忠順の生涯はこちらから。あわせて読みたい 小栗忠順(おぐりただまさ)とは?「逆賊の幕臣」が実はすごい人だった件 2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』主人公・小栗忠順とは何をした人?なぜ殺された?アメリカ帰りの男が持ち帰ったネジの衝撃から、まさかの子孫の秘話まで、わかりやすく解説します。
勝海舟 ― 教わる側から、教える側へ
勝海舟 (かつ かいしゅう)
1823年~1899年
幕臣。蘭学・兵学を学び、安政2年(1855年)には長崎海軍伝習所で学び、軍艦操練所教授方頭取を務めました。維新後は幕府側の代表として西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を実現させたことで知られる人物です。
福澤諭吉パート、小栗忠順パートと、ここまで二度も登場してきた咸臨丸。実はこの船、もう一つの顔を持っています。
万次郎33歳
万延元年(1860年)、太平洋を渡った咸臨丸。その艦長格を務めたのが勝海舟でした。ただし、勝が艦長格を務めたのは、航海の腕を見込まれて抜擢されたというより、当時の「軍艦操練所教授方頭取」という立場によるものでした。
そして迎えた本番。
荒れる太平洋の上で、勝は船酔いに苦しみ、ほとんど船室から出られない日々を送ります。サンフランシスコの新聞には、「全航海中病気にて殆ど臥床せられ、医官達の看護の下に置かれた」と報じられました。
肩書きは、艦長。しかし、本人は船酔いで寝込んでいる。なんとも情けなくも世知辛い話です。
では、実際に船を動かしていたのは誰だったのでしょうか。
測量や操船の中心を担ったのが、小野友五郎、そして万次郎でした。同乗していたアメリカ海軍のブルック大尉も、二人の技量を高く評価していたと伝えられています。肩書きだけの艦長と、汗をかく現場担当。どこかで見たことのある構図かもしれません。
それでも、後世に語り継がれるのは「勝海舟が咸臨丸で太平洋を渡った」という物語です。実際に船を動かした者たちの名前は、艦長という肩書きの陰に隠れがちでした。しかし、この一件だけで勝海舟を「お飾り」と切り捨てるのは、少し早計かもしれません。
その後の勝海舟
咸臨丸での渡米を経験した勝は、その後、神戸海軍操練所を開設します。ここで彼は、航海術や海軍の知識を若者たちに教える立場となりました。その門下生の一人が、坂本龍馬です。
かつて船室で船酔いに苦しんでいた男が、今度は多くの若者たちの前に立ち、航海術を説く。咸臨丸での経験が、この転身にどう影響したのかは分かりません。それでも、太平洋を渡ったあの航海が、勝海舟にとって何かしらの転機になったことは、想像に難くありません。
船室で臥せっていた男が、やがて若者たちを育てる側へ。
幕末から明治へ ~繋がるバトン
幕臣となり、幕末の海を渡り続けた万次郎。その歩みは、明治維新を迎えてもなお止まりませんでした。
万次郎34歳
文久元年(1861年)、万次郎は小笠原諸島の調査に従事します。かつて漁師として海に出た少年は、今や国の命を受けて海を調べる立場になっていました。幕臣としての役目の中には、「鯨漁御用」、つまり捕鯨に関わる仕事も含まれていました。海の向こうで身につけた技術は、こうして生涯を通じて万次郎のそばにあり続けたのです。
万次郎42歳
やがて時代は明治へ。明治2年(1869年)、万次郎は開成学校(現在の東京大学)の教授に任命され、英学を教える立場になります。かつて後藤象二郎や福澤諭吉に、そして薩摩や土佐で多くの若者たちに英語を教えてきた万次郎にとって、これもまた自然な役目だったのかもしれません。
万次郎43歳
明治3年(1870年)、万次郎に新たな命が下ります。ヨーロッパで起きていた普仏戦争、その観戦のため、品川弥二郎・大山巌らとともに渡欧するというものでした。漂流から始まり、アメリカ、そして幕末の日本を渡り歩いた万次郎の視線は、この時、遠くヨーロッパの戦場にまで向けられていたのです。
しかし、翌明治4年(1871年)、万次郎は病を得て帰国します。以後は表舞台から退き、静かな余生を送りました。そして明治31年(1898年)11月。71歳になっていた万次郎は、その波乱に満ちた生涯を静かに閉じました。
貧しい漁師の息子として海に出た少年は、漂流し、異国で学び、そして日本へと世界を持ち帰りました。
島津斉彬に語り、後藤象二郎に地図を渡し、福澤諭吉と辞書を買い、小栗忠順と同じ海を渡り、勝海舟へと知識のバトンをつなぐ――。
万次郎自身もまた、「教わる側」から「教える側」へと、その人生を通じて歩み続けた人物でした。
一人の漂流民が持ち帰った世界は、こうして幕末から明治へと、次の時代へ受け渡されていったのです。
エピローグ ~繋がらなかった男



いやぁ~♪
軽い気持ちでジョン万次郎を掘り下げてみたけど、「人に歴史あり」の喩え通り深い人生だったなぁ~♪
特に、漂流してからはひとつでも歯車狂えばその後の人生なかったと思うと、歴史の大きなうねりによって生かされた宿命だったのでは?とまで感じるよ。
――その時、遠くからドタドタとうるさい足音が聞こえてきた。



さーせんっ!!昨夜遅くまで呑み過ぎて、二日酔いで寝坊しましたっ!!



遅いっ!
話は全て終わった!
二日酔いで臥せってたって、お前は勝海舟かよ!



何のことっすか?勝海舟って?もう一度最初から話してくださいよ~!
どうやら、私の話は後輩Kには繋がらなかったようです。
遅れてきた聞き部(?)~はじめての方へ



後輩K:軽ーい気持ちで一杯のつもりで吞んでたら、いつのまにやらはしご酒な男。おまけにホームのベンチでごろ寝だったことに衝撃を受けている、スーダラゆとり世代。







